تسجيل الدخول熱の底で、遼は何かを追いかけていた。 金色の光みたいなもの。 あたたかい手。 胸の奥がぎゅっと痛くなる感じ。 それが何なのか、どうしてこんなに苦しいのか、もうわからない。 目を開ける。 見慣れた天井だった。自分の部屋だとわかるのに、身体が鉛みたいに重い。 襖の向こうで、声がした。 「遼のことは問題じゃない。分霊が消えた。それが問題だ」 父の声だった。 遼は息を止めた。 分霊。 知らないはずの言葉なのに、その響きだけが妙に胸を刺した。 「問題じゃない?」 栄子の声が、低く震えた。 「目を覚まさないのに?」 「戻ったなら十分だ」 「十分なわけないでしょ」 短く、鋭い声だった。 「遼は連れていかれかけたんだよ。 消えたのがそっちじゃなくて、遼だったかもしれないのに」 父は少しも揺らがなかった。 「その方がよかった。〈天〉を失った今、この家は終わる」 その言葉に、遼の胸がまた痛んだ。 何を失ったのかはわからない。 でも、自分より大事なものがあるのだと、父は言っている。 「……最低」 栄子が吐き出すように言った。 「こんな家、終わっていいよ」 「音瀬の者ならわかるはずだ」 「わかりたくない」 ぴしゃりと返る。 「私は家のためじゃない。遼のためにやったの」 その声だけが、熱の中の遼にははっきり聞こえた。 遼は布団の上で、そっと指を握る。 何かあたたかいものに触れていた気がした。 大事だった気がするのに、思い出そうとすると、輪郭はするりと逃げていく。 気づくと、目の端から涙がこぼれていた。 熱い涙だった。 頬を伝って、枕へ落ちる。 どうして泣いているのか、自分でもわからない。 ただ、もう二度と触れられないものがある気がして、胸の奥がひどく痛んだ。 *** あの日から、長い時間が過ぎた。 シーツの熱が、まだ肌に残っていた。 遼は佐伯の腕の中で浅く息をつきながら、ぼんやりと天井を見ていた。 身体の奥はまだ少し痺れているのに、不思議なくらい心は静かだった。 佐伯の指が、遼の髪をゆっくり梳く。 その手つきは、さっきまでの熱とは違って、ひどく優しい。 「……寝る?」 低い声が耳元に落ちる。 「んー……まだ」 答
最初のうちは、窓の外にも見慣れた景色が流れていた。 閉まった店の灯り、途切れがちな街灯、黒く沈んだ家並み。 けれど、いくつか駅を過ぎたあたりから、遼は小さく眉を寄せた。 こんな線路だっただろうか、と思った。 窓の外が、妙に暗い。 ただ夜だからというだけじゃない。遠くにあるはずの家の灯りが見えず、木立ばかりが続いている。しかも、その木々は風もないのに、ときどき水の底みたいにゆらいで見えた。 隣で、アマはじっと窓の外を見ている。 「……アマ」 「うん」 返事はいつもどおり穏やかだった。 けれど、その横顔を見た瞬間、遼の胸の奥がまたきゅっとする。 アマは、知っているのだと思った。 この先へ行くことを。 この景色がどこへつながっているのかを。 電車がトンネルに入る。 窓の外が真っ黒になった。 その瞬間、車内の灯りがひとつ、ふっと明滅する。 遼は思わずアマの手を握り直した。 すぐそばで、アマが遼を見る。 「こわい?」 遼は少し迷ってから、小さく頷いた。 「……ちょっと」 アマは怒らなかった。 笑いもしない。 ただ、遼の手を包みこんで、静かに言う。 「だいじょうぶ」 その声に、また胸がきゅっとした。 怖いのに、うれしかった。 その手があるだけで、行ける気がしてしまうのが、いちばん怖かった。 長いと思ったトンネルは、音もなく終わった。 けれど、抜けた先の景色を見て、遼は息を呑んだ。 知らない駅だった。 ホームは古く、灯りは青白い。 看板らしきものはあるのに、字が読めない。読めるようで読めない、見ていると形だけが崩れていくみたいな文字だった。 窓の外には、黒い森が広がっている。 その向こうに、どこか見覚えのある山の影があった。 神根だ、と、なぜか遼は思った。 扉が開く。 外の空気はひどく冷たかった。 夏の夜のはずなのに、そこだけ季節が違うみたいだった。 アマが立ち上がる。 「ついた」 その声は、うれしそうだった。 遼も立ち上がりかけて、ふと動きを止める。 ——いや。 神根遺跡は、もっと遠いはずだ。 電車を何本も乗り継いで、それでも最後は山道を行かなければ着かない。 こんなふうに、夜の電車に少し乗っただけで
それから半年ほど、遼は何度も離れへ通った。 最初は水と干菓子を持っていくだけだった。けれどそのうち、庭で拾った石や、折った草の葉や、書庫でこっそり覚えた言葉まで持っていくようになった。アマは少しずつ人の言葉を覚え、遼の来る時間になると、障子の向こうでじっと待つようになった。 遼も、ただ会いに行っていただけではなかった。 何度か言葉を交わすうちに、アマが「かみね」から来たのだとわかった。それが神根遺跡のことだと気づいた頃には、もう季節が二度変わっていた。 父の本棚から地図帳を出して、神根の字を何度も指でなぞった。裏門から駅までの道を頭に入れ、庭師が話していた山道のことも覚えた。缶にしまってあったお年玉を何度も数え、これだけあれば二人で電車に乗れるだろうかと真剣に考えた。 子どもの考えることだから、きっと抜けだらけだった。 それでも遼は本気だった。 秋が深まるころには、アマに触れられるたび、遼の体にはもうはっきり変化が残るようになっていた。手首を掴まれればそこから熱がひろがったし、肩に指が触れるだけで、胸の奥や下腹のあたりが落ち着かなくなった。 なんだろう、これ、と何度も思った。 でも嫌ではなかった。困るのに、次もまた触れてほしいと思ってしまうのが、いちばん困った。 その日、遼は離れの座敷で膝の上に手を置いたまま、小さく息を吸った。「……きょう、いこう」 アマが金の瞳を上げる。 遼はどきどきしながら続けた。「調べたんだ。駅まで行って、電車に乗れば、神根の近くまで行ける。お金もある。たぶん、行ける」 アマは黙って遼を見ていた。 その視線に見つめ返されるだけで、遼の胸はまた少し熱くなる。「ほんとは、たぶん、だめなんだと思う。姉さんも変なこと言ってたし、見つかったら怒られる」 そこまで言って、遼は唇を結んだ。「でも、きみをここに置いていくの、もういやだ」 しんとした座敷の中で、アマがゆっくり瞬きをする。「……きみ、かえる?」 アマは遼を見て、それから小さく訊いた。「いっしょに、かえる?」 遼は息を止めた。 返してあげる、とは言った。 けれど、一緒に帰るつもりだっただろうか。自分の家はここで、学校もあって、母も姉もいる。そのはずなのに、アマの金の瞳を前にすると、「ちがう」と言うのがひどく怖かった。「……」 少しだけ迷っ
翌日の午後、遼は小さな水差しを抱えて離れへ向かった。 怖くないわけではなかった。姉に言われた言葉も、まだ胸のどこかに引っかかっている。けれど、それよりも、もう一度あの金の瞳を見たい気持ちのほうが強かった。 障子の前に立つと、昨日と同じように空気がひやりと変わった。夏の終わりの庭の匂いが遠のいて、古い木と畳の冷たい匂いだけが残る。 遼は小さく息を吸って、障子を開けた。 その人は、昨日と同じ場所にいた。 淡い金の髪が肩から背へ落ちて、薄暗い座敷の奥でじっとしている。けれど遼の顔を見た瞬間、金の瞳がほんの少しだけひらいた。 「……きた」 低い声だった。 その声を聞いた途端、遼の下腹の奥が、きゅう、と縮んだ。 嫌なような、でも少し甘い痺れが走って、遼は思わず息を止める。 なんだろう、これ、と思った。 「……うん。お水、持ってきた」 座敷へ上がって差し出すと、その人は不思議そうにそれを見たあと、そっと両手で受け取った。飲み方は少しぎこちなくて、喉が上下するのを見ていると、本当に喉が渇いていたのだとわかる。 昨日、戻れなかったことが急に申し訳なくなって、遼は膝の上で手を握った。 「……ごめん。昨日、戻るって言ったのに」 その人は水差しを抱いたまま、少し首を傾げた。 「きたから、いい」 それだけで許されるのが、かえって困る。遼はますます胸の奥が落ち着かなくなった。 しばらく黙ってから、遼はぽつりと訊いた。 「なんで、きみはずっとひとりでここにいるの」 その人は少し考えるみたいに目を伏せた。 「……まえは、ひとりじゃなかった」 「じゃあ、なんで」 金の瞳がゆっくりと遼を見る。 「ついてきたら、かえれなくなった」 遼は息を止めた。 うまくわからない。誰に、とは聞けなかった。でも、その言い方がひどく寂しくて、遼は胸の奥がきゅっとした。 「きみ、名前は?」 その人は少し首を傾げた。 「なまえ?」 「うん。きみのこと、なんて呼べばいいの」 しばらく黙っていたあと、その人はゆっくり首を振った。 「……ない」 遼は目を瞬いた。 名前がないなんて、そんなことあるのだろうか。犬にも猫にも、庭の鯉にだって名前はあるのに。 「……ないんだ」 思わずそう言うと、その人は何も答えなかっ
「……だいじょうぶ?」 変なことを聞いた、と遼は言ってから思った。 相手は少しまばたきをして、それから、ほんの少し首を傾げた。 「……だいじょうぶって、なあに?」 遼は息を止めた。 その返しが変だった。 言葉の意味が通じていない、というより、その言葉が最初からこの部屋にはないみたいだった。 ぞわ、とまた背中が粟立つ。 やっぱり、まずい。 ここにいてはいけない気がした。 遼は思わず一歩だけ後ずさった。廊下へ出て、大人を呼んだほうがいい。そう思うのに、相手の金の瞳がじっとこちらを見ていて、うまく足が動かない。 「えっと……つらくない、とか。いたくない、とか……そういうの」 説明しながら、自分でも何をしているのかわからなかった。 相手は黙って聞いている。 その顔が、綺麗なのにひどくわからなくて、遼はまた少し怖くなる。 やっぱり帰ろう。 今度こそそう決めて踵を返しかけたとき、相手がそっと手を伸ばした。 大きな指が、遼の手首を包む。 びくっと肩が跳ねた。 強く掴まれたわけではなかった。振り払おうと思えば、たぶんすぐにできた。 けれど、その手は思ったより温かくて、遼は一瞬、息を止めた。 人の手の温かさとは少し違った。 火みたいに熱いわけでもないのに、触れられたところからじんわり何かが染みてくるようで、手首の内側が落ち着かない。 「……いかないで」 掠れた声が落ちる。 その声が、あまりにも寂しそうだった。 遼は息を止めたまま、掴まれた手首にそっともう片方の手を添えた。 振り払うというより、傷つけないように指を外していく。 大きな手は、少し名残惜しそうに、けれどあっさり離れた。 「……すぐ、戻るから」 そう言って、遼は座敷を出た。 けれど、結局その日、戻ることはできなかった。 水を持っていくつもりだったのに、離れを出た途端、急に怖くなった。誰かに見つかることも、この家の言いつけを破ったことも、あの金の瞳にまた見つめられることさえも、急に現実味を帯びたからだ。 それでも、掴まれた手首のあたたかさだけは、いつまでも消えなかった。 *** その夜、遼はなかなか眠れなかった。 目を閉じるたび、離れの暗い座敷と、あの金の瞳が浮かぶ。 怖かったはずなのに、
音瀬家の子どもは、離れのいちばん奥に近づいてはいけない。 遼は、小さい頃から何度もそう言い聞かされてきた。 夕方から先は行くな。 鈴の音がしても、呼ばれたと思うな。 見ても、知らないふりをしなさい。 理由を聞いても、大人たちは誰も答えなかった。答えないくせに、その話になると、みんな少しだけ声をひそめた。障子を閉める手つきまで、どこか急いでいた。 だから遼も、離れの奥には口にしてはいけない何かがいるのだと、なんとなく知っていた。 その日も、夕方の縁側から使用人が膳を運ぶのが見えた。白い飯、湯気の立つ汁物、季節の菜。けれど、それはいつもほとんど手つかずのまま下げられる。 どうして食べないのだろう。 どうして誰も、そのことを気にしないのだろう。 気になって、遼は庭へ下りた。 石畳はまだ昼の熱を残していたのに、離れに近づくにつれて足元の空気だけがひやりと変わった。夏の終わりの夕方だった。蝉の声も、母屋のほうの話し声も、そこだけ薄い布を一枚かけたみたいに遠くなる。 離れの前に置かれた膳は、そのままだった。 汁の表面に張りかけた膜が、時間の経ち方を見せている。 そのとき、奥で鈴が鳴った。 ちりん。 遼の肩がびくっと揺れた。 細い音だった。高くも低くもないのに、耳ではなく、背中の真ん中に直接落ちてくるみたいな鳴り方だった。 もう一度、ちりん、と鳴る。 呼ばれている気がしたわけではない。 けれど、誰かがそこにいて、じっと息をひそめているのだとわかってしまった。 行ってはいけない。 見ても知らないふりをしなさい。 頭の中で祖母の声がした。 それなのに、遼はその場を離れられなかった。 怖い。 なのに、どうしてか胸の奥が妙にざわつく。逃げたいのとは少し違う、もっと落ち着かない感じだった。障子の向こうにあるものを見なければ、今夜は眠れない気がした。 遼はそっと縁に手をかけた。 障子紙は夕方の光を薄く吸って白く光っていた。近くで見ると、桟の木は古く、指先にざらりと毛羽立っている。 その白さの向こうに何かいると思うだけで、ぞく、とした。 開けたらいけない。 ここを開けたら、何かが変わる。 そんな気がしたのに、指は離れなかった。 ほんの少しだけ。 中を見て、
洗い椅子に腰を下ろさせ、桶でぬるま湯をそっとかける。 湯気がふわりと立ちのぼり、彼の白い肩に水の粒がきらめいた。 透明な雫が、滑らかな肌を伝って流れていく。 「……っ、あ」 小さな声が漏れる。驚いたのかと思ったが、彼は目を細めて、無垢な笑みを浮かべていた。 「ねえ、これ……なんか、すっごくきもちいい」 「湯をかけただけだぞ」 「でも、リョウのて……あったかくて、ふわってする……」 その純粋な言い方に、胸がくすぐったくなって、思わず目を逸らす。 「はいはい、次は洗うぞ」 スポンジを手に取り、石鹸を泡立てる。 ふわふわの泡を、彼の肩にそっと乗せると、泡が肌に溶け込むように
彼は俺の胸に顔を埋め、柔らかい舌で乳首を転がす。 ちゅっと吸い上げるたび、身体がびくんと跳ねる。静かな寝室に、ちゅ、ちゅっと湿った音が響く。「…っ、ふ、ぁ…やめろって…」 言葉は出るけど、もうまともじゃない。気持ち悪いわけじゃない。むしろ、ちくりとした快感が神経をじわじわ焼いて、下腹が熱くなる。 なのに、彼の無邪気な仕草に、胸がざわつく。こんなことで感じるなんて、なんか…間違ってる気がする。「ん…きみのこえ、すき…」 彼は片方の乳首を吸いながら、もう片方を指でそっと撫でる。布越しでも、身体が勝手に跳ねる。(こんなことで…) 性的な意味はないんだろう。彼はただ、俺にくっついて
長身の美しい造形に、不似合いな幼い言葉だった。 その声を聞いた瞬間、俺の思考が止まる。 「……おまえ、名前は?」 「なまえ?」 首をかしげて、きょとんと見上げてくる。 「──自分をなんて呼ぶか、知らないのか」 「しらない。でも……きみの声、すき」 「……俺は音瀬。音瀬 遼だ」 「おとせ……りょう……」 音の響きを確かめるように呟いたあと、彼は目を細めた。 「いいおと……からだのなか、ぽかぽかする……」 「──おまえは、なんだ」 問いかけに、彼は少し首を傾げ、にこっと笑った。 「……ぼく?」 「おまえ以外に誰がいる」 俺の胸に指を当てて、彼はぽつりと言
──佐伯から電話がかかってきたのは、神根遺跡での発掘調査の最中だった。 石碑の影が長く伸び、風だけが静かに吹いていた。 スマホが震えて、佐伯の文字が表示される。 世間的に言うなら──元恋人で、今は……都合のいい関係。 そう考えた瞬間、自分で胸を冷やすような気がした。 俺はため息をついて応答ボタンを押した。 「……なんだ」 『今日うち来いよ。嫁いねぇからさ。久々に──』 その軽い声が胸に触れた瞬間、ちく、と痛んだ。 (……そういう扱いかよ) 口には出さない。 出す資格なんてない、とずっと思ってきたから。 「うるさい。今、神根遺跡の調査中だ」







